2月の「盗難事件」を境に、私の人生は大きく変わった。
「日常生活に必要不可欠なもの」
をいきなりごっそりやられたせいで
「どうでもいい物に囲まれて生活している」
ことに、改めて気づいたのである。
とはいえ、最初の「大整理&大処分」はまっとうであった。つまり本当に「不要なもの」がターゲット。
ところが、どんどん処分しているうちに
「これを捨てられたってことは、こっちもいけるじゃん」
的、即断、即決、即処分のプログラムが、私の中にインストールされ、後はもうとどまるところなし。
気がついたら
「これは捨ててもいいのでは」
「これはあげたほうがいいのでは」
と、家の中で目にするものすべてに問いかけており、いつのまにか
「毎日、毎週、何かを処分する」
のが、私の新しい生活習慣になってしまった。
だから、私のアイデンティティと深く結びついている
「電子ピアノ」
なども、さっさとあげてしまえのである。18年間、演奏してきた思い出いっぱいのつまったピアノ。
ではあった。が、その時の私は
「使わないものを家に置いておいても」
「誰かに使ってもらった方がいい」
教に支配されていたので、一瞬ののちに、私の手、私の家から出て行った。
何事も、二つに一つ。
「するか、しないか。するならとことん。身も心も。寝ても覚めても」
の私は、自らの情熱に引きずられ
「20年間分の大整理&大処分」
に、ここ二か月もの間、明け暮れていたのである。
そうして、家の「大整理&大処分」は完了した。はずであった。クリスティーナがうちに来るまでは。
クリスティーナは絵の仲間なのだが、歯に衣を着せないことで有名。だから私たちが会話をすると、もうものすごい勢いで会話が進む。
彼女がうちにお茶をしに来た時のことだった。ぐるりとアトリエを見回し、開口一番こう言った。
「大整理か。で、作品の大整理はいつやるの?」
「えっ・・・」
これまで、家中のありとあらゆるものを大整理&大処分してきた私だったが、「作品」にはまったく手をつけていなかった。
というわけで、アトリエの壁はこれまでの作品、習作、試作でぎしり埋まっている。飾ってある、のはなく、これでもかと壁を覆っているのだ。
「こんなに過去の作品が壁を覆ってたら、新しい風が吹き込まないよ。今のももに必要なのは、真っ白なスペース。せめて作業場の半分は、今の自分、新しい作品のために確保しなくちゃ」
そんなことをまっすぐ言ってのけるのは、クリスティーナくらいのもの。私は静かに感動していた。
「完成したものは売る。保存する。途中のものは、一か所にまとめる。保存や整理が全然できてないよ」
クリスティーナの生き生きとした表情に心を奪われながら、彼女の横顔を見つめていた。
「今のもものためにスペースを作ってあげなきゃ」
「そうだね。気づかなかったよ。さっそくやってみる!」
本当に、その夜から私は始めた。まずは壁に飾ってある作品すべてをひっぺがすことから。習作、試作も多いので、商品価値はないものも多いだろう。
でも、まずは壁を自由にしなくては。
そして、私自身を。
さすがに作品を処分することはないけれど、まずは壁をまっさらにすることから。それだけでも夜中の1時までかかった。
イスに上ったり下りたり。伸びたり縮んだり。何気ないがすごい運動量。ガラスに入っているものはそれなりの重さもある。
「うわー、壁がまっさら!」
かなりの感動。満足感。ではあったが、あまりの疲労感で、最後の一枚を取り外した瞬間、ものすごい眠気に襲われ寝てしまった。写真がなく残念。
翌朝、起き出して呆然。テーブルは絵の山。床も作品で埋めつくされている。
「家の中が完全に使用&機能不可能」
になっていることに気づく。
が、その時はまだ知らなかったのだ。
「作品の整理」
というのは、ものすごいエネルギーと時間を必要とすることを。
生活用品とは明らかに、判断基準や作業のプロセスがちがう。後から思えば
「部分的に作品を壁から外して」
いけばよかったのだ。
が、そんな
「少しずつ」
「様子を見ながら」
という機能は、私にはついていない。
自分で始めたこととはいえ。いったいどこから何を始めていいのやら。途方にくれたまま、アトリエに立ちつくしていた。