第96話 7時のビバルディ

「リリリリ~ン」
結婚式の練習をしていると、勢いよく電話がなった。
「シィ、シィ、アオラ、アオラ(はい、はい、今でますよ)」
あわててリビングに走り、受話器をとる。
「もも!来週の木曜日、あいてる?トレケブラーダ・ホテル、
だいじょうぶだよね!」

って、口調がすでに『絶対』。音楽プロダクションのリカルドであった。
「何、弾くんですか?」
「ビバルディ」
「あの『四季』の?」
「そ!企業のセミナーでね、正面のスクリーンの映像にあわせて、弾くんだよ」
「ビバルディを」
「春夏秋冬、それぞれ一番いいとこ、弾いてよ。トリオでね」
「トリオ?」
「そ、バイオリンとチェロとピアノで。いい?7時開始だからね!」
チェリストのゲサにさっそく連絡をとる。
とりあえず2回の合わせ練習で、本番にのぞむことになった。

「あさってだけど、だいじょうぶだよね!」
リカルドが、確認の電話をかけてくる。
ここまでは、いい。問題はここからである。

「7時に演奏開始だから、6時には搬入すませてスタンバイして待っててよ」
「オーケー」
「朝ねぼう、しないように!目覚まし、ちゃんとかけてね」
「朝ねぼう? 目覚ましって?」
「少なくとも、朝5時にはセットしといたほうがいいね」
「えええっ!まさか7時って、朝の7時?」
「あれ~、言わなかった?」
「聞いてませんよ!」
「じゃ、今、聞いたってことで。まっ、そういうことでよろしく!」
いつもながら、なんて無責任、非情な人たちだ。

「朝の7時・・・・・」
起きたこともない。スペインの超夜型生活に慣らされた体で、5時起き。
「ほんとに、弾けるんだろうか・・・」
本気で心配になってくる。
どう考えても、ビバルディを弾く時間ではない。
それに重い機材運びをする時間でも、ないだろう。

「まだ、自分が誰かもわからないときに・・・・」
ベラは呆然として、すっかり固まっている。

いよいよ『朝7時のビバルディの日』がやってきた。
5時に目覚ましがなる。が、まるで真夜中。
通りは静まりかえり、もちろん真っ暗。
日の出入りが2時間近く、日本より遅いスペインでは、
外が明るくなるのは7時半すぎである。

「気持ちわるい~、吐き気がする~」
あたりまえだ。とりあえず、ジュースだけ飲んで、会場であるホテルに向かう。

さっそく機材を設置。待つこと15分、が、約束の6時になってもいっこうにゲサが現れない。
「いったいどーしたのっ!」
「まさか、寝坊したんじゃ・・・」
恐ろしい想像が、一気にふくらむ。
「ちょっと、入り口見てくる!」
すごい勢いで走り出したので、体がついていけず

「うぐっ」
気持ちわるい。
「ううう~」
うめきながら、必死でホテルの玄関にたどり着く。
そのとき、
わたしの視界にホテルの外で、呆然と立ち尽くすゲサの姿が飛び込んできた。
「ゲサ!なにやってんの?早く、音あわせの時間だよ!」

その瞬間、驚いたのは制服を着たおじさん。
「ええっ、ミュージシャンの方?ほんとうに?」
って、よく見れば、ホテルのセキュリティのおじさんである。

「いやぁ~、そうは見えなかったもんで・・・」

聞けば、ゲサの容貌があまりに怪しかったため、ホテル館内への入場を拒否したとのことであった。
「怪しい、って・・・」
たしかに、ねぐせそのままの髪、ぼろぼろのシャツにスポーツシューズ、楽譜はなんと『スーパーの袋』に入れられていた。
「お世話かけました!」
わたしはセキュリティのおじさんに一礼すると、ゲサの手をつかんで会場に突進した。
「ゲサ、見つかったから!もうだいじょうぶ」
そう言ったとたん、今度はベラが泣きそうな顔で訴えた。
「もも~、僕『秋』の楽譜、忘れちゃった・・・こんな時間に起こされたから」

「はぁっ?」
「ビバルディ、暗譜じゃ弾けないよ。アドリブするわけにもいかないし」

って、あたりまえじゃ。
時計を見ると6時20分。演奏開始まであと40分。
わたしは必死で考えをめぐらせた。
「そうだ!」

神は、わたしたちを、ついに見捨てなかった。

ピアノの楽譜には、バイオリンの楽譜が平行して、
2周りほど小さいサイズで書かれている。クラシックにはよくあることだ。
互いのパート、入り方がわかるように、という配慮からである。

「これ、コピーしよう!」
いそいでホテルのコピーコーナーに走るが、肝心の拡大コピーの機能がついていない。
「これじゃ、小さすぎて読めないよ~!」
時計の針は、刻一刻と進んでいく。
そのとき
わたしの中に、とんでもない、しかしこの場をのりきる唯一の方法が浮かんだ。
「よし!わたしがリライトする!」

A4コピー用紙に、ものさしで五線を引くと、
あとは何も考えず、ひたすら楽譜を書き写した。
1音
1音。まちがえられないから必死だった。
なんせ、ビバルディ。
スタンダードナンバーを書き写すのとはわけがちがう。
「できたっ!」
時計を見ると6時40分。演奏開始20分前。5分で音合わせ。
そのとき、セミナー会場に200人近い研修生たちが、
一気になだれこんできた。

「間に合った・・・・・」
本来、『弾くこと』が目的であるのに、そのときのわたしは、
『弾きだすことができた』ことで、すでに目標達成であった。
全身から力がぬけ、
本当に、どうやって弾いたかもおぼえていない。
「春」「夏」「秋」「冬」・・・人々が拍手をするたび、
「ああ、弾くことができて、本当によかった・・・」
と、巨大スクリーンの前で、ぬけがらのようになっていた。
そして、この『大先輩がた』は、
「これまでいったい、どうやって生き抜いてきたのだろう」
と、不思議な気持ちに包まれた。

(第2部・完)
温かい励ましを、ありがとうございました。
このつづき(97話~)は、第3部でどうぞ。
10月8日から始まる「秋の新企画」
どうぞ、お楽しみに!

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