4.嵐の中で描いた100点の絵

昨日の続き。
(6,7月のことを書いています)

今回のニッポン帰国の目的は、大きく二つ。
まずは7月10日、名古屋で行われる
「展示会・ライブペイント&ワークショップ」。
こちらはクロ隊長が会場探しから予約、
詳しい展示の打合せまでせわしく
動き回ってくださっていた。

そして二つ目は「ベラと母の散骨の旅」。
昨年の9月にべラを、12月に母を亡くし
本当に泣いてばかりの一年だった。

だからこそ、2016年は気合いを入れて新年を始めた。
ピアノが弾けなくなってしまい
(指は動くのだが、弾く情熱が失われてしまい)
音楽で食っていくことが難しくなったので
いきなり「転職」を試みた。
そう、絵を描くことに。

今、思えば「突拍子もない」と笑って言えるが
その時は「それしか生きていく方法がない」ように思えた。
主に精神的に。

何かに「全力で打ち込まなければ」
とても生きてけないような気がした。
スペインに渡ってから19年
これまでどんな時でも私を支え救ってくれたのは
私の「集中力」だった。
それに、身も心も注ぐ。
肉体も時間も忘れて命を注ぎ込む。

その時だけ
どんな不安や悲しみや怒りも
私に手出しできなかった。
集中こそが、私を救った。

だから、悲しいほど、苦しいほど
私は集中の中に自分を追いやった。
考えていたら、迷いや不安が流れ込んで
押しつぶされてしまいそうだった。
だから、私は絵を描き続けた。
毎日毎日。

周りの方々からは
テレビやソファを捨てて一心に絵を描いている
私の「ただごとではない暮らしぶり」を心配して
「絵なんか描いて、生きていけるのか」
「通訳やガイドをした方がいいのでは」
「一時的にスペインの企業に務めたら」
と、真剣にアドバイスをしていただいた。

その通りなので、その言葉は大切に
胸の内におさめてある。
現実的には、それがまっとうなのだ。
が、私の中から聞こえてくるのは
それとはまったく逆の声だった。

「一度しかない人生。
まだ時間が与えられているのなら、やってみたい!」

可能性があるかないか。
それが難しいかどうか。
そんなことはどうでもいいじゃないか。

19年前、ピアニストになろうと
一人スペインへ渡った時もそうだった。
できるかどうかなんて、私は自問したことはない。

「したいかどうか」
「命をかけたいかどうか」
それだけ。私が自分に問うのは。
だめなら、その時考えればいい。

体中に巻き付けてニッポンへ運んだ
100点にものぼる「作品」を眺めながら
私は自分の、この数か月を振り返っていた。

絵はどれも、色にあふれている。
喜びや生命力でいっぱいだ。
しかし、描いている時、私は嵐の中にいた。
悲しみや苦しみや痛みの、荒れ狂う黒い腕の中に。
泣きながら描いていたこともあるし
パポ・ルッカの音楽に踊りながら、描いていたこともある。
いずれにせよ、嵐の中に、いた。

そして、理解した。
痛みや悲しみや苦しみからも
「花」は咲くのだ、と。

そして、苦境の中で
自らの力で咲いた花は
少々の風や雨ではけして消えたりしないだろう。

作品を一つ一つ包みながら
名古屋の「展示会」のことを考えた。
こうして今日まで、薬のお世話にもならず
眠ることも食べることもでき、生きて来られたのは
「絵を描いて、商品にする」
という明確で具体的な目標があったからだ。

そしてそのデコボコ道をここまでニッポンとスペイン
遠く離れて二人三脚してくれたのは
他でもない、クロ隊長だった。
弱気になった時も
「プロとしての自信、プライドを持って!」
と、私を底から支えてくれた。

明日はクロ隊長に会いに、名古屋へ。
半年ぶりの再会。
それがなんと!クロ隊長が講師を務める学校へ
「授業参加」させていただくと言う。
はたして、どうなることやら。

(明日につづく)

 

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「4.嵐の中で描いた100点の絵」への2件のフィードバック

  1. スペイン企業で働くももさんかっこよさそうだけど・・・・
    日本でスペイン語使う仕事ってあまり期待できなそうです。
    友達のウィークリーマンションにいくと
    受付の女性がいて名門私大のスペイン語学科卒だそうです。
    友達が「きみのようにスキルが無いとああいう風な仕事しかできない
    」とか言っています。(
    わたしはなんだろう?ITのスキルがある人らしいです。

  2. 29歳でピアニストか・・・・
    わたしだったらどうかな
    体鍛えて太極拳の先生を趣味的にやるとかだな・・・・

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