先日、見も知らぬ音楽関係者の方からオファーがあった。
それが前代未聞の注文で、とあるホテルで
“オリエンタル超豪華ディナービュッフェ”を催すのだが
そこで日本の曲を1時間半演奏してほしい、というのだ。
「日本の曲だけを1時間半!?」
そんな注文、受けたこともないので、当然、用意もしていない。
「1時間半はキツイですよ。それに日本の曲ってかなり単調なので、
ピアノで弾いても東洋趣味は出ないと思うんですが…。
やっぱり、琴とか笛とかでないと…」
ところがその担当者、半分泣きが入ってきて、
「スペイン中を探したんですが、いないんですよ。
お願いします。あっ、もう告知は全部してありますから」
おいおいおい、してありますって、ちょっと。
「それで、いつなんですか?」
「来週の木曜日です。」
「へっ、来週の木曜日って、6日後ってことですか?」
「だから何とかしてくださいよ。ピアノとバイオリンのデュオで何とか」
1時間半分の曲を今から書いて、編曲して練習するのに6日しかないの?
そりゃあ、この仕事受けるのって、スペイン広しといえども私たちくらいだろうなぁ。
「それから当日は、いかにもハポネサ(ジャパニーズ)って感じで来て下さいね」
いかにもハポネサって、私がハポネサなんだから、ねえ。
一本の電話でいきなりカンヅメ状態になるのには慣れているけど
それにしてもこれは時間がなさすぎる、ブツブツ言う時間さえないじゃないか。
さっそく唱歌から15曲をセレクト。
「夕焼け小焼け」「さくら」「春が来た」「紅葉」「赤とんぼ」「ふるさと」…。
イントロや間奏ををオリエンタルにはしたものの、ピアノで弾くとこれが実に単調なのだ。
まるで小学生がピアノ弾いてるみたいだ。そこで
もう少しノリのある曲を入れることにした。
「青い山脈」「学生時代」「誰よりも君を愛す」
それから「リンゴ追分」。やっぱ、ひばりちゃんは押さえとかないと。
「有楽町で会いましょう」なんてうちの父だったら、テーブルから立ち上がって
ピアノの横で歌ってしまいそうなナンバーだ。
他にもボサノバ調の「どうぞこのまま」、
ブルース調にアレンジした「男はつらいよ(寅さんのテーマ)」
「Gメン75のテーマ」まで、日本なら至福の1時間半になること間違いなし、のプログラム。
それにしても私はメロディーを知っているからいいが
バイオリンのべラはこの不思議なメロディーを聞いたこともないから
もう大変。どれも似ているらしく、すっかり混乱している。
だいたいタイトルからして「ハル、ガキタ?(春が来た)」
と、とんでもないところで切ってくれるので
タイトルは全て「ハル(春)」とか「星」とか一語にし
その横に絵をつけてやった。なんか暗号みたいだぞ、大丈夫かなぁ。
案の定、その夜、それはおそろしい夢を見てしまった。
私は舞台の上で必死にピアノの鍵盤を押しているのだが音が出ない、そのうえ
楽譜をめくろうとしても石のように固まっていて動かないのだ。ひぇーっ。
それを日本人の友人に話すと、心配されるどころか大笑いされてしまった。
多少ムッとしながら、「夢にまで見るなんて、プレッシャーかも」
口にして、びっくり。今、プレッシャーって言った?私。
そうか、ここのところ気が重かったが、これはプレッシャーだったのか。
なんと、日常生活ボキャブラリーの中にプレッシャーという言葉が無かったために、
この7年間プレッシャーを忘れて生きていたのだった。
“プレッシャー”という言葉がなければ、”プレッシャーもない”。
この事実と自分のマヌケぶりに、またしてもガク然としてしまった。
さてディナー当日、浴衣とかんざし姿で登場、外国人観光客にはなかなかウケがよかった。
なんとか1時間半も無事に乗り切り、やれやれ、
安堵の微笑みとギャラをもって現れるはずの担当者の顔を探すが
どこにも見当たらない。レセプションで尋ねると、
「夏休みをとられてます」って、あんた、あの半泣きは何だったの!
それにしても、このホテルで数ヵ月前に行われた”タンゴディナーショー”で
アルゼンチン・アーティストと紹介され、演奏していたバイオリニストとピアニストがいたことを
知っている者はいるのだろうか。