大金持ちのお屋敷はどこも高い壁で囲われている。
そして植物が生い茂り、中の様子が外からではわからないようになっている。
だから地区一帯は不思議な静けさに包まれている。
郵便受けに近づいてそっとチラシを滑り込ませようとしたその時、
私の倍ほどありそうな大型犬が塀の上から頭だけ出して飛び掛ってきたのだ。
「グガ──ッ、ワンワンワン!」
「ひぇ──っ」
余りの予想外の出来事に腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。
どうやって郵便受けから手を引っ込めたのかも覚えていない。
そう、お屋敷には“犬”が付き物だった。
それも決まって大型犬のロットワイラーとかシェパードとかドーベルマンとか、
いわゆる“猛犬”と呼ばれる種類の番犬だ。
これが3~4軒に一回ぐらいの確率で繰り返されたのでいくらお屋敷が静かでも
「あっ、来る来る…」
と心の準備をしながら郵便受けに手を伸ばし
「グガ──ッ、ギャイン!」
「ひぇ──っ」
それでもチラシは入れられるようになった。
そんな生活が一週間も続く頃、ジャージに運動靴、更に小雨も降るのでその上にパーカー、
野球帽とどう見てもピアニストとは誰も想像できないいでたちとなっていた。
最初は30分もやると疲れていたのに今では休憩用に日本茶をポットに入れて
持って行って、伴走するベラの車の助手席で時々お茶などいただきながら
2時間くらいは平気になった。
何でも“成せばなる!”のだ。犬に吼えられながら続けたポスティングのお陰で
プライベートパーティの仕事が2つ入った。
これで1か月分の家賃が払える。やったー!
小・中・高・大とすべてを“体育系”で通したおかげ。改めて“部活”のすごさを認識した。
こういう“とりあえずやる”ってのは体育会系に永く所属していた賜物だ。
とりあえずノック100本。とりあえず腕立て、腹筋100回。
そこに質問は存在しない。考える必要は何にも無い。とにかくやればいいのだ。
やっているうちに燃えてくる。楽しくなってくる。
私は“日雇い”で“肉体労働者”“季節労働者”だったが
何より“体育会系”なのだった。
(第42話につづく)