いよいよ中津川ケアセンターでの「ファミリーコンサート」が始まった。
おばあちゃんたちとスタッフ、総勢20名あまりが
今日の主賓、お客さまである。
祖母とくも、最前列でほおを輝かせている。
「ファミリーコンサート」と言うのには、2つ理由がある。
1つは、「きみどり家・総出演」だから。
そしてもう1つは、
「これはファミリー的な、アットホームな音楽を楽しむ時間ですよ」
という気持ちを伝えたかったからだ。
ただ、聞いてもらうのでなく
いっしょに音楽を楽しみたい。
その気持ちをこめて、「司会」は父が担当。
わたしたち4人の名前をスケッチブックに書いて
「みんな、大きな声で呼んでよ~!」
と、おばあちゃんたちの食後の眠気を覚ましていた。
次に「世界の名曲・演奏」は、べラとわたし。
なにしろおばあちゃんの視線はべラに集中!なので
ジプシー音楽を演奏しながら
「は~い、音楽に合わせて、手拍子してね~!」
最初、この案に両親は反対であった。
「ちょっと無理だろう・・」と。
でもわたしたちは、スペインの病院で
アルツハイマーのおじいちゃん、おばあちゃんと
すでに手拍子は「体験ずみ」だった。
あのときも、看護婦さんはびっくりしていた。
「手拍子するの、初めて見ました」
そう、音楽は魔法の風。
音楽がかかると、みんなできるようになる!
わたしたちは、あたりまえに手拍子をお願いし、
音楽のリズムを徐々にあげていった。
「パン、パン、パン、パン!」
「そうそう、いいよ~」
手拍子は、見事なまでに完璧であった。
成せばなる。とくばあちゃんもそう言ったではないか。
すっかり自信をつけたあとは、
母のハーモニカによる「軍歌の演奏」であった。
「みなさん、いっしょに歌ってください」
母は次から次へと、4,5曲吹いた。が、わたしは正直、
「同期の桜」くらいしか知らなかった。
が、どうだろう。
おばあちゃんたちは、歌詞カードもないのに
すらすらと、軍歌を1番、2番と歌っていく。
声には、張りもある。
軍歌が身にしみこんでいるおばあちゃんたちを見ながら
わたしは、胸が熱くなった。
突然、とくばあちゃんの若き日の姿が、浮かんできた。
戦争で、とくばあちゃんがだんなさんを亡くしたのは
わずか26歳のときだった。
マリワナ海域に出征し、玉砕した。
その知らせを受けたとき、祖母は妊娠していた。
夫の戦死、出産、子育て・・・・ぜんぶ一人でやった。
「何が一番、つらかった?」
と、一度聞いたことがある。祖母は即答した。
「食べるものがなくてなぁ、赤ちゃんに満足してものがあげられんかった」
祖母は何度も何度も「かわいそうだった」と言った。
わたしにとって戦争は、祖母を通してだった。
どんな環境でも前向きに生きてきた祖母を見ていると
わたしの人生など、順風満帆ではないかと、思う。
「貧乏」「食べるものがない」の度がちがう。
軍歌を歌う、祖母の横顔を眺めながらわたしは、
とくばあちゃんと過ごした幼少時代を思い出した。
おもちゃも、お菓子もなかった。
でも、祖母はわたしの手をひいてよく、
裏山に「きのことり」に連れて行ってくれた。
季節ごとに「わらびとり」「公民館の民謡踊り」と行事は変わったが
どれも、無料で楽しめるものばかりだった。
おやつの定番はふかした「さつま芋ととうもろこし」。
これだって、祖母の手で作られている。
「もも、畑、行くぞ~」
の声で、わたしはざるを抱え、祖母のあとに従った。
数年前まで、祖母の家のお風呂はまだ「釜」だったので、
蒔で火を起こして入る。
だからわたし一人では、お風呂には入ることもできなかった。
「もも~、火かげん、ええか~」
と、おばあちゃんが外から聞く。
「追いだき」だってボタンでなく、ばあちゃんがやる。
「もっと、熱くするか~?」
母のハーモニカ演奏が終わり、最後はみんなで
「日本の唱歌」を歌うことになった。
「赤とんぼ」「ゆりかご」「七つの子」「ふるさと」・・・・
みんなの声が、ひとつになる。
わたしは祖母と、父と母と、べラといっしょに過ごしたこの日を、忘れない。
そしておばあちゃんたちの、軍歌を歌う姿を。
わたしたちは挨拶をすると、ケアセンターを後にした。
おばあちゃんは最後まで、べラにくっついて
満面の笑顔で、カメラに向かってピースを作っていた。
そして別れ際、「新聞に載ることが夢」である祖母のため
父、母、わたしの3人がそれぞれ新聞に投稿したものの
すべて落選したことを伝えると
「しょうがないなぁ、みんな。よーし、じゃあ、ばあちゃん、
100歳まで生きて、自分で新聞に載るわ!」
と、力強く言った。
そのバラ色に輝くほおを見ながら、
祖母はまちがいなく「自力」で新聞に載るであろう、と思った。
(「ニッポン驚嘆記・10」につづく)