第1話 転職先はピアニスト

6年に渡る出版社・広告代理店勤務を経て私が選んだ転職先はピアニスト。
それもスペインで。

「はあ~、ピアニストになる!?」
愛知県の両親は絶句していたがさすがに
「29歳で!?」
とまでは言わなかった。
婚期を逸してまで、それにかける娘の意気込みに気おされたのかもしれない。

スーツケースひとつでたどり着いたスペインには住む所はおろか
ピアノは勿論、仕事のあても予定もない。
「まずは棲家を見つけねば!」
と貸出中のマンションの看板を探し回る。

日本でピアニストの経験のない私の肩書きは
“元会社員、文学部卒”
これって音楽に全然関係ないぞ。
せめて音大卒とかピアノの先生やってたとか。
学生の頃にグループ組んで弾いてたとか。
唯一の演奏経験が「ピアノの発表会」だもんなぁ。
ピアノは2歳半から習っていたものの15年以上弾いてない。
もちろんピアノに触って生活していくことなど1%も考えて
いなかったのでこの転職に一番驚いていたのは実は自分自身だった。
でもこの転身には私なりの理由があった。

数ヶ月前、ヨーロッパ遊学中、何気なしに入った地下劇場。
その日の出し物は「タンゴ」。歌詞も曲もわからないのに何故か
涙が止まらない。舞台から目が離せない。動けない。

「あの中に居たい! こっち側に座ってるんじゃなくてあっち側に居たい!」
目の前に広がるその光に包まれた場所が自分の居場所だと素直に思える。
「私の座る側はあっちだ。あの光の中に居たい!」
無謀ともいえるその想いがその時は全く自然に思えた。

人生には何がしたいのか、何をするのか、それを決める瞬間がある。
それは多分一瞬のことなのだ。
「音楽屋になる!」
両親、友人知人を絶句させたまま溢れる想いに従って
自分の居場所に飛び込んでいった。それがここスペイン、マラガだった。

右も左も分からない。知ってる人は一人も居ない。スペイン語もよく解らない。
そんな突拍子もない私がこれから暮らそうとしていたのは
マラガの下町、庶民的ムード溢れるエル・パロ地区だった。
ここには高級店やブティック、しゃれた雑貨屋やカフェテリア
映画館、ショッピングセンターなんて何もない。
しかし、人々は陽気で明るくたくましい。いつも大声、ガナ(やる気)で
顔をてかてか光らせながら笑い、食べ、踊っている。
感激屋でお人好し。すぐに熱くなるがいつもどこか抜けている。
ふと目をやればパレーニョ(パロッ子)の自慢のプラジャ(浜辺)が広がっている。

「第二の人生に、再出発に乾杯!」
緑色の地中海を眺めながらひとり祝杯を上げる。

この時は、まさか2週間後にパスポート、現金、クレジットカード
一切を盗まれ“一文無し”になるとは思ってもいなかった。

思いこみこそ実現させる原動力である。(第2話につづく)

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